けさが えてくれる、そこにあるもの

 

前回のコラムでは、香りによって生まれる時間について書きました。 慌ただしく流れていく日々のなかで、香りに触れるひとときは、時間に追われる感覚から私たちを少しだけほどき、時間の流れをゆるやかに感じさせてくれる――そんなことを考えました。 今回は、その先にある感覚について目を向けてみたいと思います。 香りは、ただ時間を彩るものではなく、ふだんなら見過ごしてしまうものに気づかせてくれる存在でもあるのではないか。そんな思いからです。

見えないものに、心が動く

yohaku column 静けさが教えてくれる、そこにあるもの

香りの楽しみには、二つの入口があるように思います。
ひとつは、自分で選ぶ楽しみです。香水をまとう。お香を焚く。部屋に香りをしつらえる。気分や場面にあわせて香りを選ぶ行為には、その日の自分を少し整え、気持ちを切り替える静かな意志があります。香りを足すというよりも、香りとともに、その場の空気を整え、自分自身を調える。そんな感覚に近いのかもしれません。

もうひとつは、ふと出会う楽しみです。
道を歩いているときに漂ってくる花の香り。雨上がりの土の匂い。すれ違った人の残り香や、古い本にしみ込んだ紙の匂い。こちらは選ぶというより、気づくものです。待ち構えていたわけではないのに、不意に心に触れ、思いがけず記憶を揺らす。そんな出会い方をするのも、香りの大きな魅力だと思います。

まとう香り、ただよう匂い

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自分で選ぶ香りと、ふと出会う匂い。
少し違っているようで、どちらも私たちの心を動かします。

香水やお香には、好みがあり、意図があり、どんな時間を過ごしたいかという小さな演出があります。そこにはある種の華やかさがあり、自分の気分を少し持ち上げたり、その日の自分に輪郭を与えたりするよろこびがあります。

一方で、ただよう匂いには、もっとさりげない力があります。 それは背景のようでいて、ときにふっと前に出てくる。かすかで、密やかで、輪郭があいまいなのに、なぜか強く印象に残ることがある。むしろ、そうしたもののほうが、あとから静かに思い出されることも少なくありません。

香りには、選ぶ楽しさと、出会う豊かさの両方があります。 そう考えていると、音の世界にも少し似たところがあるように思えてきます。

そこにあるものに、気づくということ

静けさが教えてくれる、そこにあるもの

ジョン・ケージの「4分33秒」は、しばしば“無音の音楽”といわれます。けれども、その時間にほんとうに何もないわけではありません。客席の衣擦れ、遠くの物音、空調の気配、自分の呼吸や鼓動。ふだんなら背景に溶けている音が、その作品の中では、急に耳に入ってきます。

この作品が教えてくれるのは、何もないことではなく、“そこにあるものに気づく”ことなのかもしれません。音楽は、ただ鳴らされるものではなく、聴くことで立ち上がってくるものでもある。そう考えると、香りにもどこか似たところがあります。

けれども、自分で選んだ香りがほんとうに豊かになるのは、空間や時間、光や温度、そしてそのときの気分と重なったときではないでしょうか。 朝の静けさのなかで感じる香り。夜、照明を少し落とした部屋に広がる香り。何気ない日常のなかで、ふと立ち止まらせるような匂い。香りは、それだけで完結するのではなく、そのまわりにあるものと一緒に、静かに立ち上がってくるように思います。

余白は、心の中にある静かなゆとり

静けさが教えてくれる、そこにあるもの

そこで思うのです。
香りを深く味わうために必要なのは、強さや多さだけではなく、“余白”なのではないかと。

余白とは、何もないことではなく、かすかなものに気づくための静かなゆとりです。 それは、香りや匂いが届くための心の隙間のようなもの。

忙しさでいっぱいのときには、香りはただ通り過ぎてしまう。けれども、ほんの少し気持ちがほどけているとき、同じ香りがふっと深く感じられることがある。そこには、香りそのものだけではなく、それを受け取る側の余白があります。

そして、その“かすかなもの”とは、香りや匂いだけではないのかもしれません。 ふと耳に入ってくる音、誰かの気配、季節の移ろい。あるいは、自分の中にずっとあったのに、慌ただしさの中で見えなくなっていた思い。 そうしたものは、強く主張しないからこそ、余白があるときにだけ、そっと姿をあらわします。

香りは、何かを足すことでもありますが、それだけではありません。 すでにそこにある空気や気分、時間の流れ、そして自分の内側にあるものに、そっと気づかせてくれるもの。 そう考えると、香りの魅力は、華やかさのなかだけではなく、かすかな気配のなかにも宿っています。

選ぶ香りも、出会う匂いも、どちらも暮らしを豊かにしてくれるもの。 そしてその豊かさは、余白のあるときにこそ、より静かに、深く、心に届くのだと思います。 せわしない日々、ときには、ささやかな、そこにあるものに思いを寄せてみるのも、よいのかもしれません。

文:清水洋平(清水屋商店)

株式会社良品計画にて「MUJIBOOKS」プロジェクトを立ち上げ、本を介した売場づくりや出版レーベル「MUJIBOOKS」による『人と物』シリーズの刊行、「つながる絵本」「本の回収」などの仕組みづくりに携 わる。現在は『無印良品 くらしのラジオ』のプロデュースおよびパーソナリティを務めるほか、書籍、音声、展示、イベントなどを通して、ものごとの背景や価値を伝える企画・プロデュースを行っている。2025年には日本香堂監修の書籍『日本の香』(誠文堂新光社)の企画・進行・PRを担当。